晃華学園中学校高等学校

晃華生のDNAを育む宗教の時間

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晃華学園宗教先生インタビュー生徒インタビュー授業中学受験東京私立中学女子校

晃華生のDNAを育む宗教の時間 晃華学園中学校高等学校
キリスト教的価値観に基づいて全人教育を行う晃華学園中学校高等学校では、週1時間の宗教科の授業が6年間にわたって行われます。「人としてどう生きるべきか?」を考え、「人として大切なものは何か?」を自身で選び取れるための価値観を育む授業は、生徒にとって他教科とは異なる大切な時間として積み重ねられ、卒業生も印象深かった授業として挙げるほどです(卒業生記事)。
今回は晃華学園の要と言える宗教科教育を、担当の先生、生徒、授業から掘り下げます。
Teacher Interview

晃華学園の宗教科教育
-先生の言葉-

宗教科主任 安東 峰雄先生
宗教科主任 安東 峰雄先生

人生のゆるぎない価値観を育てる
晃華学園の宗教科教育

価値観を180度変える気づきの授業

― 晃華学園の宗教科教育とはどのような方針ですか。

安東先生 最も大事にしているのは、人生を通してのゆるぎない価値観を育むことです。どのような社会で生きるとしても、どのような状況であったとしても、最終的に“善を選ぶ”ことを大切にしてほしい。例えば、周りが皆、目先の利益に走ったとしても、「善とは何だろう」と立ち止まって長い目での「善」を選べる。生徒のそういった価値観をきちんと育てることが、本校の宗教科教育の根幹です。

― そのために大切にされていることは何でしょうか。

安東先生入学前は宗教の授業に対して、聖書を扱って聖書を覚えさせられるというイメージを持つ生徒が多いようですが、本校の授業は聖書科ではなく宗教科です。宗教の授業には、大きくわけて2種類あり、一つは聖書を中心にしてイエス・キリストの人生や神の言葉を学ぶ授業です。旧約聖書の歴史や言葉をきちんと学びます。
もう一つは生徒自身の人生の中の本人は気づいていない神様からのお恵みに気づいてもらう授業です。そこでは、視聴覚の教材を使っても、マザーテレサやコルベ神父といった人たちの人生について学んだとしても、振り返りをきちんと書かせ、生徒自身が感じることに重きを置きます。宗教の授業は、振り返りを書くことを通じて、自分の人生と出会う機会があるから、特に生徒たちの印象に残るのではないかと思います。

― そういった宗教科の授業は、晃華学園で受け継がれてきたものですか。

安東先生そうですね。もともと続けてきたものであり、倫理哲学・芸術・国語など他教科を専門にしてきた教員も関わってきたからこそ、育まれているものだと思います。
私たちは生徒をキリスト教の信者にするために授業をしているわけではありません。生徒が、ややもすると自分中心・人間中心になりがちな中で、自分が他者の中の一人、世界の中の一人であり、世界は自己中心的に回っているのではなく、自分も社会の中の一人なんだと気付いてもらえるような話を、宗教科の授業で繰り返していきます。それは今までの人生の中で培ってきた価値観を180度変える気づきにもなるのです。
同時に「そのままでいいんだよ」、「あなたの持っている今の力を、好きなことに活かせばいいんだよ」という話を何度もします。医師や弁護士にならなくても、人助けのためには、自分の身の回りで、自分ができることをやればいいと気づく機会が、宗教の授業の中で与えられ続けます。
ですから本校では生徒たちがSDGsの活動に熱心に取り組んでいます。理科が好きな生徒はチョークの再生プロジェクトを始めていますし、人形が好きな生徒が人形を集めて送るプロジェクトを立ち上げました。SDGsと言われる前から卒業生は皆このような活動をやっています。それは宗教科教育が作り上げてきた価値観が、晃華学園のDNAになっているのだと感じます。

宗教の授業や行事を通して培ったマインドが
晃華学園のすべての教育の土台

― 低学年から高学年になるにつれて、どのように学んでいくのですか。

安東先生スパイラル的に授業することを大切にしています。例えば中1、中2ではイエス・キリストの人生を話しますが、それを高2でもう一度聞いた時に初めて内容が自分の中にストンと入ってくる生徒もいるのです。あえてカリキュラムを固め過ぎず、現在、日本や世界で起こっているニュースなども題材として取り上げながら、生徒たちがメッセージを受け取りやすいように、杓子定規になりすぎないように進めていくことが、宗教科の授業で大切にしていることです。ですから、同じ話題が何度も取り扱われることもあります。
また、中1から高3まで6年間を通じて宗教科の授業が受けられるところも特徴です。本校では宗教の授業や行事を通して培ったマインドをすべての教育の土台にしていて、探究活動の根幹には宗教科教育があるからこそ、生徒たちは自分の興味のあるところに自信を持って突き進んでいきます。学問の基礎が哲学(宗教教育)にあることが本校では徹底されていますから、宗教科の授業時間を削ることはありません。だからといって、生徒が聖書の言葉を一言一句暗記しているかというと、そういうことはない。もちろん覚えている生徒もいるかもしれませんが、そういう聖書・宗教の授業をやっているわけではないことが特徴です。

― 宗教行事はどのような意味を持ってくるのですか。

安東先生ミサには、イエス・キリストの教えが凝縮されています。なので、生徒にとっては、宗教科の授業で学んだことや学園生活で感じたことを確認する時間となっており、とても意義深いものです。
本校は、最近のカトリックの学校では珍しく、イースター(ご復活を祝う行事)をとても大事にしています。コロナ禍の1年目だけはどうしてもできなかったのですが、昨年度は校内でミサを行い、今年度は聖イグナチオ(カトリック麹町)教会でミサを行いました。
私は現在、中3と高2の宗教を担当していますが、復活祭の前後には中3の宗教の授業で「復活とは何か?」について話します。少し宗教的な話にもなりますが、限りあるものと永遠に残るものの違いを生徒たちにもわかるように、絵本などを活用しながら伝えています。

予測できない時代だからこそ
ぶれないものを持つ

― 生徒たちを見ていて、宗教科教育の意味を実感されるのはどのような時でしょうか。

安東先生私が晃華学園に勤め始めた20数年前に比べると、今現在の生徒たちの方が宗教科教育を求めているように感じます。それは、地球環境問題の顕在化などで、生徒たちが求めている価値観が変わってきたのかもしれません。お金や学歴に対する価値が揺らぎ、お金に価値を求めても実は幸せになっていない人が大勢いることが生徒にもわかるようになり、中身が伴っていなかったら意味がないことを生徒たちは知るようになったのです。ですから、今の生徒たちは宗教科の授業に一生懸命取り組みますし、話を聞いて涙を流し、感動する生徒が増えました。その意味での手応えはあります。
SDGsの活動も若者の方が一生懸命です。大人に比べると本当に危機感を感じているのではないかと思います。環境問題は正解がないのですが、宗教科教育も正解がありません。その意味で子どもたちは宗教科教育に対して興味を持っているし、期待しているのだと感じます。メッセージは伝わりやすくなったと思います。

― 今後の入学希望者に、宗教科として伝えておきたいこと、宗教科教育について知っておいてほしいことはありますか。

安東先生予測できない変化が早い時代だからこそ、ぶれないものを持ちませんか?ということを言いたいですね。それを持っている人は強いです。マザーテレサやコルベ神父、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにしても、なぜああいった行動ができるかというと、根底にそれがあるのです。ぶれない価値観をきちんと持つ人を育てることを大切にしているのが本校宗教科の授業です、とお伝えしたいです。

STUDENTS COMMENTS

晃華学園の宗教科教育
-生徒の言葉-

晃華学園の宗教科教育

晃華学園の宗教の時間を、生徒たちはどのように捉え、向き合い、自分の軸を作り上げているのでしょうか。宗教の授業を3年間受けてきた中学3年生と、5年間受けてきた高校2年生に素直な思いをお話いただきました。

中学3年 Iさん
中学生
-生徒の言葉- 中学3年 Iさん

① 最もコミュニケーションが取れる宗教の授業

入学前は、宗教科の授業は聖書を読み、聞くだけの授業だと思っていました。実際にはグループワークを中心に、自分の考えを回りの人に伝え、考えを聞き、コミュニケーションを最も取ることができる授業です。宗教科のグループワークは、絶対に答えがあるわけではない中で、各々が持っている考えを発言し、その考えに対する意見を聞くことで、各々の考えを知れます。
中学1年ではシスターである校長先生に授業を受けます。常に1人1人の名前を呼んで、歩み寄ってくださるので、「先生にこうやって接していいんだ」と思え、宗教の授業の印象も変わりました。最初は戸惑いがあった宗教の授業ですが、そうした毎日によって、徐々に「宗教の授業とはこういうものなんだ」と慣れていくことができました。

② いろんなものを受け入れてみようという心の変化

中学2年の宗教の授業で『放蕩息子のたとえ話』<*1>を学び、レポートの課題を書きました。当時はなぜ父親が放蕩息子の弟をゆるしたのか理解できませんでしたが、中学3年になり部活でも話し合いの場が多くなって、中学生の部員をまとめる立場になったときに、自分だけの解釈で物事を決めるのではなく受け入れることも大切なんだと思うようになりました。
聖書の話は自分自身に問われて、自分自身で答えを出すことや、ワークシートを配られて自分自身の考えを述べることが多いです。そこで主張することも大事ですが、周りの意見を取り入れ、みんなが納得してくれるような考えを持とうとするきっかけも与えてくれます。自分自身でも、以前と比べるといろんなものを受け入れてみようという心の変化があると感じます。
<*1>分け与えられた財産を無駄に使い果たし行き場がなくなって戻ってきた弟(放蕩息子)をゆるす父と、その弟を軽蔑する兄の話。

③ 身近なお弁当を通して知った思い

宗教の授業での「食」や「お弁当」の授業はとても印象的でした。母親が毎朝自分のことをどのように思って、何を大切にお弁当を作ってくれているのかを聞く機会もあり、母親との交流も得られた他にない授業になりました。私の中では、「食」イコールお弁当なので、それほど身近なものを通して、親の思い改めて実感でき、「食」と宗教も理解できて、宗教の授業がより身近になりました。

④ 自分と向き合い、自分の心の中を整理できる時間

宗教の時間は、自分と向き合う時間だと思っています。宗教には、絶対という正解がなく、一人一人の考えを尊重してくれますから、あるテーマに対して自分がどのように考えているかを知ることができます。私はよく「TO DO LIST」を書き出してやるべきことを整理しますが、宗教の時間は、今、自分がどう考えているか、悩んでいるか、何を解決したいと思っているかを一番整理してくれる時間です。今後も勉強と部活を両立していく中で、自分の心の中の整理をつけることが大事だと思うので、その意味でも宗教の時間を大切にしたいと思います。

中学3年 Aさん
中学生
-生徒の言葉- 中学3年 Aさん

① 他の人の意見を知れ、受け入れられる宗教の授業

入学前はカトリック校であることは知っていましたが、宗教の授業があることは知らず、入学してから驚きました。最初に聖書が配られたときは、「これを読むのは絶対無理だ」と思いました。堅苦しいイメージがありましたが、実際の授業には全く堅苦しさはなく、今はグループワークをして楽しみながら学べています。
中1の宗教の授業ではシスターである校長先生から授業を受けます。「校長先生に教えてもらえるんだ」と驚きましたし、校長先生に名前を覚えてもらった嬉しさがあり、その授業によって学校や先生のイメージが変わりました。
宗教の授業は他教科よりも他の人の意見を知れ、受け入れられる気がします。そこが宗教の授業の一番の魅力です。「自分の意見が正しいはず」と思っていても、友達の意見を聞くと「そういう考えもあるのか」と驚きがあり、友達の新しい考えや一面を知れます。答えがないので、自分の考えを表すのが難しいときもありますが、自身の視野も広がるのが楽しいです。

② 共感できるようになった『ノーブレスオブリージュ』

中学1・2年は晃華学園についての授業内容で、学校目標の1つである『ノーブレスオブリージュ』についても学びましたが、その時はなかなか共感できませんでした。けれど中学3年になって中学のトップとして部活や行事で後輩を引っ張っていく機会が多くなったときに、「後輩が喜んでくれるこういうことを企画しよう」と思えるようになり、そこで『ノーブレスオブリージュ』に共感できるようになりました。

③ 「食」を通しての「愛」に気づいた

最初は、宗教と「食」の関連がわかりませんでしたが、授業を通して「食」とキリスト教が密接に関わっていることを知り、驚きました。最近の宗教の授業では、一番印象に残っています。食べ物や作ってくれた人に感謝することは、小さい頃から教えられてきましたが、これまで実感がありませんでした。でも、「食」の授業を通して、改めて「食」について考え、「食」を通しての愛のようなものに気づきました。

④ 心を落ち着かせられる大切な時間

私にとって、宗教の時間は自分を知る時間です。自分と向き合って、自分は何をするべきなのか、自分という存在はどうあるべきかを考え、自分の個性をつつみ隠さず出せる大切な時間になっています。週1時間の授業ですが、心を落ち着かせられる時間であり、悩みがあるときは気持ちを切り替えられます。
私は積極的に発言をするタイプです。以前は、他の人の意見を聴くことが苦手だったのですが、宗教の授業で多様性を学び、「こういう意見もあるんだ。もし自分に理解ができなくても他の人の意見は、自分の視野を広げてくれるものとして受け入れることが大切なんだ」と思えるようになりました。今後は高校生になって学校全体を引っ張っていく機会が増えると思うので、人の意見をしっかり聴き、みんなで楽しめるような行事や部活作りをしていきたいです。

高校2年 Kさん
高校生
-生徒の言葉- 高校2年 Kさん

① 身近に感じられる宗教の時間

宗教の授業は、特別なもので他の教科と一味違います。入学前は宗教に対して重々しい雰囲気を感じていましたが、実際に授業を受けてみると、キリスト教における価値観を、聖書を通して学んだり、世の中の様々なトピックをキリスト教的立場に基づき考えたりするなど、多くの学びを得ることができています。中でも私たちの普段の生活に関連していることが多くあり、自分の身近に感じられます。

② 将来や課題研究へつながった自分を見つめ深く考える機会

自分の将来を考える上で、宗教の時間は非常に意味がありました。特に印象的なのは中学3年の初回授業です。コロナの影響で休校のなか、学習面でも、社会はどうなるのかという意味でも心配でいっぱいな時期に出された「自分のヴィジョンについて考える」という課題は、自分がなりたい姿を深く見つめるタイミングになりました。また、当時は中学の「課題研究」や自分の進路を考える時期でもあり、自分を客観視することや自分自身を見つめて何がしたいのかを深く考える機会は、とても印象に残っています。
この授業を受けてからは、宗教の授業が楽しみになりました。自分の中に新しいことを吹き込んでくれる時間で、いろいろな価値観や考え方を学べます。
*課題研究:生徒自身がテーマや内容を決めて取り組む中学の卒業論文。Kさんは、社会科学について調べた。

③ 日常を見直す機会となった「食」の授業

「食」の授業は「当たり前」を見直すきっかけになりました。当時はコロナが流行しはじめて半年が経った頃で、当たり前はずっと続くものではないことを痛感していた中、「食」という私たちの日常行為を見直す機会をいただきました。
「食」は、自分が生きていく上で大切なものであることを改めて実感して、お弁当の時間の大切さや、家で親が作ってくれた食事をかけがえのないものだと思うようになりました。最近は食品ロスの問題にも意識を持ち、「食」に対して見つめる時間が増えています。今後の生活にどのような姿勢で向き合っていけばいいのかを学べた授業だったと思います。

④ 衝撃を忘れられない『夜と霧』

中学3年で読んだ『夜と霧』は、ナチスドイツに迫害を受けた人の価値観について書かれた本で、読んだ時の衝撃は今でも覚えています。表現が難しいわけではなく理解ができるぶん、さらに苦しくなりました。『夜と霧』を読んだことは、それまでの自分の言動を見直すきっかけになったと思っています。この授業があったことで、それまでに宗教の授業で享受してきたことを、もう一度捉え直す時間になりました。今、読み返してみても、また新たな視点があり、影響を受けるのではないかと思います。来年18歳で成人として社会で生きていく上で、どういう姿勢で生きていけばいいのか、物事をどう捉えてどう評価していくのかを考えるうえでも、非常に大事なものだったと思います。

⑤ 5年間の宗教の時間を通して見つけた「私」を大切に

日々の怠りを実感できると同時に、「これからどうしていきたいか、どうあるべきか」と自分を見つめ直せる素敵な時間です。特に、中学3年の頃から自分自身について考える機会が増えたことで、より宗教の授業が自分にとって大切なものになりました。自分はどうありたいのか、どういう人になりたいのかを考える上で必要な時間です。
以前の私は自分の意志を明確に持てず、流されやすかったのですが、高校の2年間で、自分の考えを持ち、他の人にも示せるようになりたいと思うようになりました。日々の学校生活や宗教の時間に自分について考える時間があると、その思いは大きくなっていき、今では自分の意見をしっかり発言できるようになったと思います。この5年間の宗教の時間を通して見つけた「私」という1人の人間を、今後も大切にしていきたいです。

 高校2年 Sさん
高校生
-生徒の言葉- 高校2年 Sさん

① 宗教の時間は特別でなく日常

私はこれまで宗教との関わりが全くなく、きれいな校舎や学校の雰囲気に憧れて晃華学園に入ったので、入学後に聖書や聖歌集をもらって初めて宗教に対しての実感がわきました。でも、宗教は意外に身近で、1つの倫理・思想として見ることができます。また、授業以外にも朝礼や終礼でお祈りや聖歌を歌うといったキリスト教と関わる時間があり、習慣のようになっていますから、特別な時間というよりも生活の一部になっていきました。
最近では高校2年の11月に、イグナチオ教会で「靜修会」がありました。私たちは、命を題材として、まずNICUをテーマとしたドラマを見て命の大切さ・尊さを知ったうえで、自分自身の人生をきちんと考える時間になりました。とても感動したので、最近の授業ですが印象に残っています。

② 『ノーブレスオブリージュ』を忘れずポジティブに

宗教の授業では、キリスト教以外にも様々な宗教に触れることができます。現代社会の文化や慣習、生活の一部となっている宗教もあり、世界の文化や多様性について新たな知見を得られます。
学校の理念『ノーブレスオブリージュ』という考え方は、学校生活でもよく見かけます。私は硬式テニス部に所属していて、この1年、後輩たちのメニューを考え、指導をしてきましたが、現役として最後の一年間ということもあり、自分自身もテニスに向き合いたいと思うこともあり、自己中心的な考えになることもありました。でも、自分自身が中学生の時に高校2年の先輩方から教えていただいたことを、私も後輩に返したいという思いは強くあり、それを後輩にもしてもらいたいと思うのです。そういう『ノーブレスオブリージュ』の精神は晃華の日常に表れていると、私は特に部活を通して感じています。大学生になっても、社会に出ても『ノーブレスオブリージュ』の精神を忘れずに、何事にも前向きに取り組んでいきたいと思います。

③ お弁当の真の意味に気づき感謝

「食」と宗教は関係がないように思いますが、「食」から宗教やカトリックを学ぶ糸口になっていて、身近な話題からの授業は受けやすく、印象にも残りました。私はこの授業で初めて自分のお弁当を作り、その大変さに気づき、親が自分のために毎日お弁当を作ってくれていることにとても感謝しました。自分の立場のありがたみを強く感じることができた授業でした。

④ 自身の状況のありがたさを感じた「夜と霧」

中学2年生のロングホームルームでの講演を通じてホロコーストについて知識としては知っていましたが、具体的には知らなかったので、本当に残虐で描写的にも辛く悲しい内容に感じるものがたくさんありました。そのうえで自分自身の今置かれている状況や平和ということは当たり前ではないのだと感じました。『夜と霧』に限らず英語の授業でもナチスドイツについての映画を鑑賞し、高校3年では沖縄に行き戦争や平和について触れる時間があります。他校だったら学ぶことがないようなことを、晃華では学ぶことが出来るので、とても貴重だと感じています。

⑤ 晃華での学びを軸に自分自身と向き合い続ける

宗教の授業は、いろいろな思想や倫理観を知る時間で、様々な宗教を教養として学ぶことができます。他者を理解し、自分自身を肯定するマインドを得ることもできました。宗教の授業に限らず学校生活において「他者のために行動する」ことが学校の軸にあるので、進路選択など迷うことはたくさんありますが、この考えを軸にして自分自身と向き合い将来も選んでいきたいと思います。それはこの晃華学園で身に付いた習慣です。学んだことを次に活かすという点でも、宗教の授業には大きな意味があると思います。

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Report & Teacher Interview

晃華学園の宗教科授業
-食と救い-

中学3年生の2学期には、宗教の授業において「食と救い」の授業が行われます。身近な「食」や生徒が毎日食べるお弁当を通して人生に大切な価値観を育む授業。その様子をご紹介します。

① 透明感あふれるソプラノの歌声が教室内に響くなか、黙想からスタートする宗教の時間。週に1回、心を落ち着かせる貴重な時間を過ごすことが、晃華生の心の軸を作っていきます。
② 「食」の授業は、キリスト教の「ミサ」が「思い出の食事」であることを踏まえていますが、この日は聖書を開くことはありませんでした。
③ 安東先生の体験や失敗エピソード、撮ってきた写真などを見せて、生徒が自然に「食」と向き合い、気づきを得るように工夫された授業。生徒たちは先生の話が面白くて、とても楽しそうです。
④ パワーポイントのスライドを見て、先生の話を聞き、配布されたプリントに書き込みをしながら授業は進みます。
⑤ 「便利な世の中ではあるけれど、あなたが大切というメッセージが込められるのは、手作りの食事だけ。みんなはそのメッセージを食べているんです」という安東先生の話に、多くの生徒が自身のお弁当や家での食事をイメージして心を動かされたでしょう。
⑥ 「食」と生への肯定感の関係性、「食」の軽視、「食卓」の重要性といった生徒たちに知ってほしい話が、知識としてではなく、心に問いかける内容になっていました。晃華学園の宗教の授業ならではです。
REPORT

食と宗教!?
戸惑いから気づき、感謝の時間になる宗教科授業

中学3年生の宗教科の授業では、現代社会の「食」の現状を踏まえて、食卓は「あなたが大切」というメッセージを受け取り「生への肯定感」を育む場である、と安東先生は生徒に伝えました。なぜ宗教科で「食」を学ぶのか、キリストとのつながりを解説しつつ、生徒にとって日常である「食」や「お弁当」を通して、さまざまな価値観を問うていきます。
この後、生徒がお弁当を作ったり、保護者に話を聞いたりしながら、最終的には作文も仕上げる「食と救い」の授業。身近なテーマのせいか、より前向きに授業に向かい、自分に問いかけ、心に響くものを確認しているように感じられた生徒たちには、確かに他の授業とは異なる輝きがありました。

Teacher Comment

身近な「食」で気づく
人生において大切なもの

聖書に出てくるイエス・キリストが食卓を囲んでいる姿は、行動の具体例の1つです。寂しい思いをしている人をイエスが仲間に入れる時は、食事を共にする場面が多く、聖書でイエスの食事を共にしているというシーンを見ていけば、イエスは食卓を囲むことによって「あなたを愛してる」というメッセージを伝えていきます。ただ、それを聖書の話だけで読んでいくと生徒には伝わりません。
7年ほど前から始めた「食」の授業は、伊藤幸史神父様(現・カトリック新潟教区司祭)の講話内容を土台にして展開しています。新しい知識が豊富になるわけではありませんが、人生において大切なものは何かを「食」という身近なテーマを通して伝えています。決して食育の授業ではないことがポイントです。
本校はカトリック校ですから、イエス・キリストのメッセージをそのまま伝えることも大切にしなければいけないのですが、信者の生徒だけではありませんから、2000年前の出来事が生徒の生活にどういうふうに生かされていくかまで落とし込んでいかないといけません。
そのためには種まきが大切です。中1・中2の2年間や中3の1学期までは他の教員やシスターもイエス・キリストやマリアの話をします。その時は腑に落ちていなかったものが、中3の2学期に「食」について学ぶと、初めて「食卓を囲むとはこういうことか。ミサとはこういうことか」と腑に落ちるのです。そして3学期は「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)を読み、そこでも「絶対的に善いものを知っている人」という大きなメッセージが出てきて、生徒たちは新たな気づきを得ます。

晃華学園は第二の家庭
その精神でお弁当を授業で考える

授業では、お弁当についての振り返りをしてもらい、「自分の人生の中で思い出に残っているお弁当」、「お弁当を作ったときのお父さん・お母さんの反応」などの作文を書いてもらいます。運動会の日にはスペシャルなお弁当を作ってもらえたといった思い出が、実は生徒たちの生涯の宝物や心の支えになりますし、お父さん・お母さんへの感謝の気持ちや、「自分が大切にされている」という気づきがあります。
イエス・キリストは、新約聖書では「大酒飲みで大食いだった」というように記されるほど、食卓を囲むことを通して作ったコミュニケーションを大切にしています。
私たちの学校は「晃華学園は第二の家庭である」と、家庭の精神を持って教育することを教員が大切にしていて、家庭生活の最も象徴的なことが食卓を囲むことですから、あえて宗教科の授業で「お弁当」について取り組みます。授業をしていると、この授業で価値観が大きく入れ替わった印象を持つ生徒は多いように感じています。

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