今回は晃華学園の要と言える宗教科教育を、担当の先生、生徒、授業から掘り下げます。
晃華学園の宗教科教育
-先生の言葉-
人生のゆるぎない価値観を育てる
晃華学園の宗教科教育
― 晃華学園の宗教科教育とはどのような方針ですか。
安東先生 最も大事にしているのは、人生を通してのゆるぎない価値観を育むことです。どのような社会で生きるとしても、どのような状況であったとしても、最終的に“善を選ぶ”ことを大切にしてほしい。例えば、周りが皆、目先の利益に走ったとしても、「善とは何だろう」と立ち止まって長い目での「善」を選べる。生徒のそういった価値観をきちんと育てることが、本校の宗教科教育の根幹です。
― そのために大切にされていることは何でしょうか。
安東先生入学前は宗教の授業に対して、聖書を扱って聖書を覚えさせられるというイメージを持つ生徒が多いようですが、本校の授業は聖書科ではなく宗教科です。宗教の授業には、大きくわけて2種類あり、一つは聖書を中心にしてイエス・キリストの人生や神の言葉を学ぶ授業です。旧約聖書の歴史や言葉をきちんと学びます。
もう一つは生徒自身の人生の中の本人は気づいていない神様からのお恵みに気づいてもらう授業です。そこでは、視聴覚の教材を使っても、マザーテレサやコルベ神父といった人たちの人生について学んだとしても、振り返りをきちんと書かせ、生徒自身が感じることに重きを置きます。宗教の授業は、振り返りを書くことを通じて、自分の人生と出会う機会があるから、特に生徒たちの印象に残るのではないかと思います。
― そういった宗教科の授業は、晃華学園で受け継がれてきたものですか。
安東先生そうですね。もともと続けてきたものであり、倫理哲学・芸術・国語など他教科を専門にしてきた教員も関わってきたからこそ、育まれているものだと思います。
私たちは生徒をキリスト教の信者にするために授業をしているわけではありません。生徒が、ややもすると自分中心・人間中心になりがちな中で、自分が他者の中の一人、世界の中の一人であり、世界は自己中心的に回っているのではなく、自分も社会の中の一人なんだと気付いてもらえるような話を、宗教科の授業で繰り返していきます。それは今までの人生の中で培ってきた価値観を180度変える気づきにもなるのです。
同時に「そのままでいいんだよ」、「あなたの持っている今の力を、好きなことに活かせばいいんだよ」という話を何度もします。医師や弁護士にならなくても、人助けのためには、自分の身の回りで、自分ができることをやればいいと気づく機会が、宗教の授業の中で与えられ続けます。
ですから本校では生徒たちがSDGsの活動に熱心に取り組んでいます。理科が好きな生徒はチョークの再生プロジェクトを始めていますし、人形が好きな生徒が人形を集めて送るプロジェクトを立ち上げました。SDGsと言われる前から卒業生は皆このような活動をやっています。それは宗教科教育が作り上げてきた価値観が、晃華学園のDNAになっているのだと感じます。
晃華学園のすべての教育の土台
― 低学年から高学年になるにつれて、どのように学んでいくのですか。
安東先生スパイラル的に授業することを大切にしています。例えば中1、中2ではイエス・キリストの人生を話しますが、それを高2でもう一度聞いた時に初めて内容が自分の中にストンと入ってくる生徒もいるのです。あえてカリキュラムを固め過ぎず、現在、日本や世界で起こっているニュースなども題材として取り上げながら、生徒たちがメッセージを受け取りやすいように、杓子定規になりすぎないように進めていくことが、宗教科の授業で大切にしていることです。ですから、同じ話題が何度も取り扱われることもあります。
また、中1から高3まで6年間を通じて宗教科の授業が受けられるところも特徴です。本校では宗教の授業や行事を通して培ったマインドをすべての教育の土台にしていて、探究活動の根幹には宗教科教育があるからこそ、生徒たちは自分の興味のあるところに自信を持って突き進んでいきます。学問の基礎が哲学(宗教教育)にあることが本校では徹底されていますから、宗教科の授業時間を削ることはありません。だからといって、生徒が聖書の言葉を一言一句暗記しているかというと、そういうことはない。もちろん覚えている生徒もいるかもしれませんが、そういう聖書・宗教の授業をやっているわけではないことが特徴です。
― 宗教行事はどのような意味を持ってくるのですか。
安東先生ミサには、イエス・キリストの教えが凝縮されています。なので、生徒にとっては、宗教科の授業で学んだことや学園生活で感じたことを確認する時間となっており、とても意義深いものです。
本校は、最近のカトリックの学校では珍しく、イースター(ご復活を祝う行事)をとても大事にしています。コロナ禍の1年目だけはどうしてもできなかったのですが、昨年度は校内でミサを行い、今年度は聖イグナチオ(カトリック麹町)教会でミサを行いました。
私は現在、中3と高2の宗教を担当していますが、復活祭の前後には中3の宗教の授業で「復活とは何か?」について話します。少し宗教的な話にもなりますが、限りあるものと永遠に残るものの違いを生徒たちにもわかるように、絵本などを活用しながら伝えています。
ぶれないものを持つ
― 生徒たちを見ていて、宗教科教育の意味を実感されるのはどのような時でしょうか。
安東先生私が晃華学園に勤め始めた20数年前に比べると、今現在の生徒たちの方が宗教科教育を求めているように感じます。それは、地球環境問題の顕在化などで、生徒たちが求めている価値観が変わってきたのかもしれません。お金や学歴に対する価値が揺らぎ、お金に価値を求めても実は幸せになっていない人が大勢いることが生徒にもわかるようになり、中身が伴っていなかったら意味がないことを生徒たちは知るようになったのです。ですから、今の生徒たちは宗教科の授業に一生懸命取り組みますし、話を聞いて涙を流し、感動する生徒が増えました。その意味での手応えはあります。
SDGsの活動も若者の方が一生懸命です。大人に比べると本当に危機感を感じているのではないかと思います。環境問題は正解がないのですが、宗教科教育も正解がありません。その意味で子どもたちは宗教科教育に対して興味を持っているし、期待しているのだと感じます。メッセージは伝わりやすくなったと思います。
― 今後の入学希望者に、宗教科として伝えておきたいこと、宗教科教育について知っておいてほしいことはありますか。
安東先生予測できない変化が早い時代だからこそ、ぶれないものを持ちませんか?ということを言いたいですね。それを持っている人は強いです。マザーテレサやコルベ神父、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにしても、なぜああいった行動ができるかというと、根底にそれがあるのです。ぶれない価値観をきちんと持つ人を育てることを大切にしているのが本校宗教科の授業です、とお伝えしたいです。
晃華学園の宗教科教育
-生徒の言葉-
晃華学園の宗教の時間を、生徒たちはどのように捉え、向き合い、自分の軸を作り上げているのでしょうか。宗教の授業を3年間受けてきた中学3年生と、5年間受けてきた高校2年生に素直な思いをお話いただきました。
晃華学園の宗教科授業
-食と救い-
中学3年生の2学期には、宗教の授業において「食と救い」の授業が行われます。身近な「食」や生徒が毎日食べるお弁当を通して人生に大切な価値観を育む授業。その様子をご紹介します。
食と宗教!?
戸惑いから気づき、感謝の時間になる宗教科授業
中学3年生の宗教科の授業では、現代社会の「食」の現状を踏まえて、食卓は「あなたが大切」というメッセージを受け取り「生への肯定感」を育む場である、と安東先生は生徒に伝えました。なぜ宗教科で「食」を学ぶのか、キリストとのつながりを解説しつつ、生徒にとって日常である「食」や「お弁当」を通して、さまざまな価値観を問うていきます。
この後、生徒がお弁当を作ったり、保護者に話を聞いたりしながら、最終的には作文も仕上げる「食と救い」の授業。身近なテーマのせいか、より前向きに授業に向かい、自分に問いかけ、心に響くものを確認しているように感じられた生徒たちには、確かに他の授業とは異なる輝きがありました。
身近な「食」で気づく
人生において大切なもの
聖書に出てくるイエス・キリストが食卓を囲んでいる姿は、行動の具体例の1つです。寂しい思いをしている人をイエスが仲間に入れる時は、食事を共にする場面が多く、聖書でイエスの食事を共にしているというシーンを見ていけば、イエスは食卓を囲むことによって「あなたを愛してる」というメッセージを伝えていきます。ただ、それを聖書の話だけで読んでいくと生徒には伝わりません。
7年ほど前から始めた「食」の授業は、伊藤幸史神父様(現・カトリック新潟教区司祭)の講話内容を土台にして展開しています。新しい知識が豊富になるわけではありませんが、人生において大切なものは何かを「食」という身近なテーマを通して伝えています。決して食育の授業ではないことがポイントです。
本校はカトリック校ですから、イエス・キリストのメッセージをそのまま伝えることも大切にしなければいけないのですが、信者の生徒だけではありませんから、2000年前の出来事が生徒の生活にどういうふうに生かされていくかまで落とし込んでいかないといけません。
そのためには種まきが大切です。中1・中2の2年間や中3の1学期までは他の教員やシスターもイエス・キリストやマリアの話をします。その時は腑に落ちていなかったものが、中3の2学期に「食」について学ぶと、初めて「食卓を囲むとはこういうことか。ミサとはこういうことか」と腑に落ちるのです。そして3学期は「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)を読み、そこでも「絶対的に善いものを知っている人」という大きなメッセージが出てきて、生徒たちは新たな気づきを得ます。
晃華学園は第二の家庭
その精神でお弁当を授業で考える
授業では、お弁当についての振り返りをしてもらい、「自分の人生の中で思い出に残っているお弁当」、「お弁当を作ったときのお父さん・お母さんの反応」などの作文を書いてもらいます。運動会の日にはスペシャルなお弁当を作ってもらえたといった思い出が、実は生徒たちの生涯の宝物や心の支えになりますし、お父さん・お母さんへの感謝の気持ちや、「自分が大切にされている」という気づきがあります。
イエス・キリストは、新約聖書では「大酒飲みで大食いだった」というように記されるほど、食卓を囲むことを通して作ったコミュニケーションを大切にしています。
私たちの学校は「晃華学園は第二の家庭である」と、家庭の精神を持って教育することを教員が大切にしていて、家庭生活の最も象徴的なことが食卓を囲むことですから、あえて宗教科の授業で「お弁当」について取り組みます。授業をしていると、この授業で価値観が大きく入れ替わった印象を持つ生徒は多いように感じています。