個性尊重・自主自立・自由平等を教育の柱にする明星学園中学校。個性あふれる教科教育の中から、今回は国語科に注目します。創立以来「文学」と「ことば」を学びの二本柱としてきた明星学園の国語科。そこではどのような授業が行われ、何が大切にされているのでしょうか。また、国語科とも切り離せない総合探究科の「哲学対話」の授業も紹介。考えること、対話することを大切にする明星学園だからこその国語科がありました。
Interview 明星学園国語教育の信念とは?
文学作品だからこそできる学び
7年生(中1)の国語科の授業では、『サアカスの馬』(作:安岡章太郎)の感想をまとめたプリントが配られた。生徒の直筆のままでコピーされた感想は、わかりやすいように訂正されていたり、読みやすいように打ち直されたりすることなく、生徒たちのオリジナリティが文字や書き方、表現の違いにもあふれている。
山口先生が、「いいなと思ったところに波線を、自分の感想と同じところに棒線をひいて」と指示を出すと、にぎやかだった生徒たちはいっせいに読みに集中。教室には静かな時間が訪れた。
『サアカスの馬』は、全くとりえのない主人公の少年が、サアカス団のテントにつながれた背中の湾曲が痛々しいやせた馬を見て自分を重ねる。しかし、サーカスに行くと、その馬はサーカス一座の花形。あっけにとられて見ていた僕だったが、最後は一生懸命手を叩いていた自分に気づくという話だ。
そのまま授業は「誰の感想のどんなところが良かったか」を発言する“感想の感想“を伝え合う時間になった。
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- がんばって応援している姿を見て、この先の僕の人生は、濃いものになるんだなと感じた。
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「僕が、イキイキとサーカス団で働いている馬を見て、“すごい”という感情をとりもどし、がんばって応援している姿」というところが、自分が僕になった気持ちで書かれているからいいなと思った。「この先の僕の人生は濃いものになるんだなと感じた」と僕の先も見ている。
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- 主人公は何も得意なことがないと言っていたけど馬みたいに本来のみ力があるのではと思った。
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[作品の]文章に書いていないのに、想像して、馬と性格が似ていると思ったからこそ、主人公にも見えていない強みがあるのかもしれないと気づいたのがすごい。物語の先まで想像しているのが面白かった。
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- 馬が大活やくした時に、劣等感を抱くのではなく、感動したことにおどろいた。
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「劣等感を抱くのではなく感動したことにおどろいた」というのが、感情が暗い方ではなく明るい方に向かっていることに気づいている。でも、「裏切られた」と思わないのかなってどういうこと?
裏切られたというのは、主人公は最初馬も自分と同じようだと思っているのに、サアカスで活躍しているのを見て、僕は全然ダメなのに馬は活躍していると嫉妬や「裏切られた」ように思わないのかなと考えた。(本人)
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- なんもいいところがないところがいいところなんじゃないかと思った
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「なんもいいところがないところがいいところ」「人それぞれの見方があると思うから、気にしなくてもいいと思う」と思っているのが、すごいなと思った。(先生)
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- 「そう云った」などなんで「云」←この漢字をつかっているのか分からなかった
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「まァいいや」の「ァ」をなにこれ?って言っているのがおもしろい。
「そう云った」も、なんでこの「云」を使っているんだろう?「言った」でもいいと僕も思う。
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- なんのとりえもない人でもむちゅうになれるのいいなぁーと思った。
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「僕は我にかえって一生懸命手をたたいている自分に気が付いた」。ここは自分も書いたし、たくさんの人が書いているけど、なんかいい!いいよね?
先生は「他にはない?」と生徒に発言を促し、控えめな生徒には声掛け。その結果多くの幅広い“感想の感想“が取り上げられ、そこからまた次の授業で考察したいことや話し合いたいことが見つかっていく。
授業を通して印象的だったのは、作品の感想やそれに対する“感想の感想“を、互いに尊重し合えていること。大きな肯定もないが、否定もない。だからこそ、いつの機会でも素直に自分の考えを書け、自分なりの意見も疑問も言え、問われたら自分の「ことば」で反応ができるのだろう。明星学園らしさにあふれた形式にとらわれない国語科の授業。こうして自由な表現者たちは育まれていく。
明星学園現広報部長。元国語科教員。1985年、明星学園が自由教育を行う学校であること、検定教科書を使用しないことなども知らないまま大学の恩師の勧めで入職。以来38年間、中学校の国語教育に情熱を注ぎ、多くの生徒たちに明星学園の大切にする「文学」と「ことば」を教えてきた。生徒・保護者から呼ばれる愛称は「ほりしぇん」。
知って人生を豊かに
学びの二本柱にしているそうですね。
その軸にあるもの、理由は何だとお考えですか。
- 堀内先生
- 最近、中学も高校も教科書から文学作品が減り、載っていても単なる読書教材の扱いになってきています。その理由の一つに、現代の子どもたちは社会に出てレポートや報告書を書くこと、企画書や説明書といった実用的なものを読めることが求められるが、文学作品は情緒的で実用的ではないといった主張があります。しかし、文学作品にはたくさんの人間や人生が描かれていますから実用的でないというのはおかしい。従来のような、文学作品を読みながら作品のテーマを考えるだけの授業だったり、文学好きの先生が面白い語りで引きつけたりするだけの授業では、一部の生徒だけが面白いだけになってしまいますが、文学作品の中に生きるいろいろな人に感情移入をしたり、登場人物から離れて語り手の視点に立ったりすることで、様々なことを総合的に学べます。
文学作品は科学的ではないという言われ方についても、自分の読みをきちんと根拠を挙げて説明することのできる方が、実際に生きていく上で大切な論理ではないかと思います。「これからの時代も文学教育が大事だ」と言っているだけでは説得力がありませんが、虚構の世界をクラスの仲間と共に生き、きちんと根拠を挙げて説明できる力を身につける文学の授業は、これからも必要だと思いますね。
- 堀内先生
- 私が40年近く前に明星に入ってきたときには中学校国語科には3人の専任の教員がいて、どの先生も違う民間教育団体に入り、それぞれの方法で教えていました。刺激を受けられるような恵まれた環境だったのです。
ただ、共通認識として常に言われてきたことは、浅い道徳教育にならないようにということでした。友情に関するテーマの物語であっても、生徒に「友情はこうあるべきだ」と感じさせることを目的にするのではなく、一つ一つの「ことば」に着目する。例えば、なぜそう感じたのかを考え、「〇〇さえの“さえ”。この副助詞一つがあることでこう読み取れるんだ」と気づかせる。そうしてきちんと分析したうえで作品のテーマに迫っていくのならばいいのですが、深く分析もせずに表面的に感動したり、人間はこうあらねばならないといった感想文を書かせたりするつまらない形式が、文学教育の目標ではないのです。
そして、文学作品のもう一つの大きな意味は、自分と向き合うこと。第三者的な薄っぺらな感想文を書いていては意味がない。深く読むというのは自分と向き合い、自分を語ることです。長年授業をしていると、生徒のそういったモノに出会えます。
深く語り合って終わりが見えなくなった『藪の中』
印象的だった教材や生徒たちの面白かった反応はありますか。
- 堀内先生
- 検定教科書の定番だけども長く扱うことのなかった太宰治の『走れメロス』に、8年生(中2)で取り組みました。友情は素晴らしいで終わるのが嫌で、ずっと避けてきた作品ですが、「メロスのこと、どう思う?」という初発の感想だけで、生徒は大きく二手に分かれました。「かっこいい」「親友を大切にするのは素晴らしい」というタイプと、「誰々のためと言っていながら自己中心的」「妹に早く結婚させてとか、自分勝手。現実的にこんなのありえない」「いや、こういった身勝手さは現実でもよくある」というタイプです。そして邪智暴虐の王様についても、「極悪非道で許せない」という子もいれば、「王様こそ深く悩んでいる人間らしい人間だ」という子もいて、これほど真っ二つに分かれる作品だったのかと驚きました。
授業を進め、深く読めば読むほど、メロスと王様が対比的に描かれているのに、だんだんとこの二人が似てくる。「同じ部分を持っているのではないか」と読みが交流しつつ、自分と全然違う読みの人の気持ちも見えてくる。一つの作品を同じ教室の30数人で読んで、それが交錯する瞬間。それは教員生活を30何年やってきてそう何度も経験したわけではありませんが、忘れられない時間になりました。こういう時間がなかったら「『走れメロス』って小学生向けの作品だね」で終わっていたと思います。
- 堀内先生
- もちろん深い部分での教材研究をしていなければいけないのですが、初めから「『走れメロス』なんて」と思ってしまっていた私もそこにいました。それに気づかせてくれたのも生徒です。生徒の純粋な意見が入ってきたからこそ成立した授業です。
もう一つ印象的だったのが、芥川龍之介の『藪の中』という作品。黒澤明の映画『羅生門』の原作です。最終的に何が正しいかわからないまま終わることを「藪の中」という言葉で表すようになったのは、この作品名が語源になっているということですが、作中の侍を誰が殺したのか、事実が何なのかは最後までわかりません。それを9年生(中3)の授業でやったところ、生徒たちは推理小説的な読みで、真犯人は誰か真剣に根拠を見つけながら仮説を立てていきました。しかし、わからないように書かれているから最終的にはやはりわからない。その授業を、どう完結させるかに相当悩みました(笑)。生徒は正しい結果を求めるのです。“事実”は一つかもしれない。でもその先にある“真実”は、人の数だけある。一つの事件は、判決が下り、それが報道されることで、それが本当の事実なのかは別にして歴史として記録されてしまう。しかし、それを取り巻く一人一人の“真実”は別のところにあるのではないか。いろいろな具体例を交えながら深く語り合いましたが、なかなか生徒たちには許してもらえず、終わらせるのに苦労しましたね。でも、とても刺激的で、生徒たちが相当のめり込んだ授業になりました。
それぞれの先生に委ねられているのですか。
- 堀内先生
- 現在も、中学校には3人の専任の国語科教員がいて、基本とする教材は共通にしています。そのうえで、相談したり、去年はどうだったかの資料をもらったりしますが、今年の教材としてすべてをやらなくてはいけないわけではなく、個々の教員が挑戦できる余地を残しています。今のような授業は、予定通りの授業時間数ではなかなかうまく進みませんから、柔軟に対応できるようにしています。
多少の血が出ても、かさぶたにして強くなってほしい
生徒にとってどういうものにしたいとか、こだわられていることはありますか。
- 堀内先生
- 全部ではありませんが、やはりテーマとして生徒の心に波紋を広げるようなインパクトのある作品を選ぶことが多いです。思わず自分自身を見つめなおしてしまうような。印象深いのは、重松清の『きみの友だち』という短編集に入っている『千羽鶴』。これは強烈な作品で、一度文学作品の副教材を作るということで出版社に推薦したら、現場の先生が扱いづらいのではないかとリストからはずされました。でも、そういった作品を授業で扱いたいし、扱うといろいろな化学反応が起きるのです。
『千羽鶴』には西村さんという、いじめられて転校してきた女の子が登場します。新しい学校では何とかみんなとうまくやりたいと思い、学校に来ていない入院しているという子にみんなで千羽鶴を折ろうと提案します。でもそれは、入院中の子のためではなく自分のための行為なんですね。本人は気づいていませんが。この西村さんに対して授業中、「私、こういう子大嫌い」と何度も言う生徒がいました。「西村さんみたいな要素を、一人一人みんな持っているんじゃないの?」という生徒もいたりする。授業後、「私はもしかして西村さんと似ているかもしれない。○○ちゃんが西村さんのこと大嫌いと大声で言うけど、私のことを大嫌いと言われてるいみたいで…」と言いにきた生徒がいました。すると、今度は西村さんのことを大嫌いと言っていたその子が数日後「先生、私って西村さんと同じに見える?」とこっそり言いにくる。「大嫌い」と言っていたその生徒が最も西村さんと自分との共通点を意識し、そう見られないようにあのような発言をしていたわけです。そういう子どもたちが、この作品を通してどのように本音で対話し、お互いをそして自分自身を認めていけるようになるか、その糸口が見えた気がしました。
たしかに下手をすると心から血を流させてしまう作品で、だからこそ扱いづらい作品と言われてしまうんですよね。ただ、その瞬間傷ついてしまった生徒はいたかもしれません。でも、多少血が出たとしても、かさぶたにして強くなってくれた方がいいのではないかと私は思っています。
化学反応が起こる可能性も減るのかもしれませんね。
- 堀内先生
- 世の中では物語よりももっと大変なことが起きているわけです。家庭の中で問題を抱えている生徒もいるでしょう。30代のころ、生徒が抱えている問題を吐き出させてあげたいと考え、「何か書きたいこと、伝えたいことがあれば、どんなことでもいいからここに書いて提出すればいいよ」とクロッキー帳を全員に一冊ずつ配ったことがありました。そうしたら提出する生徒たちの中に、死にたいとか、ネガティブなことを書きつける子が何人かいたんです。とにかく重い。それはこちらでコメントを書いて返すのが難しいようなものでした。あえて、読んだよということのみを伝える短い言葉をコメントに書いていたと記憶しています。もちろん思春期の時期にそのようなことを考えるのは珍しいことではなく、1年もすれば過去のこととして忘れてしまうことがほとんどなのですが。でも、その時期にそれを書かせ、1対1のやり取りをするのはその生徒の成長にとって果たしてどのような意味があるのかと悩んだのも事実です。
そこで自分のことをそのまま書かせるのは1年だけにして、文学作品の中に出てくる人物について語らせるようにしました。そうするとそれぞれが一人、自分の部屋で自分を語るのではなくて、その作品の登場人物に自分を重ねながら教室の中で語り、交流し、あるところで自分を認めてもらえるような授業場を経験しました。そのままを書かせなくても文学作品を通して自分を語らせることができると気づき、むしろその方が自分の心を解放することにつながるのではないか、国語科教師とはなんて恵まれているのだろうと思いました。
嬉しいですよね。
- 堀内先生
- 嬉しいです。けど、怖いですよ。傷ついたという子がどれだけ知らないところでいるかと思うと怖い。でも別のところで救われていると信じています。
- 堀内先生
- 文学作品の特徴は、作者とは別の語り手がいるということ。その語り手が変わると、全く違う世界になってしまいます。すべての中学校検定教科書に載っている『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)という中1の定番教材は、語り手が僕で隣に住むエーミールとの間の出来事を語ります。僕は、エーミールが完璧で模範少年だけどとても嫌味な奴だと語りますが、その語り手をエーミールにするとどうなるのかと、物語の視点を変えて7年生に再話させました。
それがあったので8年生での『走れメロス』も王様視点で再話させると、人を信じられない邪智暴虐な王の視点に立つことで、メロス視点とは全く違う世界が見えてきます。そういった視点が変わると世界が変わって見えることは、世の中の出来事にも当てはまること。ウクライナとロシアの戦争も、ロシアの人の視点、ウクライナ人の視点、あるいは周辺の少数民族の人の視点によって全く見え方は違います。それらに気づかせることも文学作品と向き合ううえで可能なのです。ただし、これは浅い意味での「みんな違ってみんないい」ということを言いたいわけではありません。その上での自分の主張が語られ、議論がされなければなりません。「何でもあり」は相手を尊重しているようで、対話の否定につながってしまいます。
また、視点を変えての再話はストーリー自体に大枠の筋があり、空白の描写を想像することが求められます。そして、『少年の日の思い出』ならヘルマン・ヘッセの文体を真似ることになります。その真似るということがとても大切で、作家としての工夫を自然に意識するようになります。
どこで感じられますか。
- 堀内先生
- 現在、週1日だけ大学の国語の教職課程で教えているのですが、明星の中1・中2の生徒の書いたものを大学生に読ませると彼らは驚き、感心するんですね。そして大学生が言うには「私の通っていた中学校ではこういう書き方は許されなかった。中身ではなく、話し言葉で書くだけで真っ先に指導された。それに先生の言っていることは絶対だから、それと違う自分の意見を書くという発想もなかった。でも、この子たちは自由に、私たち大学生が気づかないような深い内容を書いている」と。つまり中身が育っていない段階で形式だけを教えると、覚えた形式に当てはまるような言葉を入れ、落第点を取らないような文章を書いてしまう。けれど、まずは自由に自分の「ことば」で書かせたら、本音や感じたままが文章に出てくる。そして、それを他の人たちにも伝わるように書くのであれば、どういった方法がいいかと考える。それが大事なんです。
だから、生徒の作文を読むのは先生だけではダメだと思っています。書くとは読んでもらうこと。誰かに向けて書いて読んでもらえる文章でないといけないから、たとえ真実であっても自分の内面をただ吐き出すだけでは誰にも読んでもらえません。それなら、どういう文体で書けばいいかと考える。内容としては悲惨なことでも、ユーモアに包んで書くと、読む人に通じやすくなります。それは自分を客観的に見て、読者も客観的に見ていないとできないことです。ある意味それは大人になることなのかなと思います。
解くが求められていると思っていました。
- 堀内先生
- 形式を先に与えると、そこに当てはめられるものが正解で、それ以外はダメだとなりますから、文学作品を読むときも、視点や語りを教えることを目的とするのではなく、そのプロセス、作品を味わうことがまず一番にあります。作品を味わうと、生徒からいろいろな意見が出てきますから、それを対比させ、対話することから発見したことを形としてまとめてあげます。数学で言えば、公式を与えて問題を解かせるのではなくて、「なぜこうなるんだろう」と考えたうえで「だからこういう公式になっているのか」とわかってから解く。そういう段階を大切にしています。
文体や言葉や漢字の間違いばかりを指摘された覚えがあります(笑)。
- 堀内先生
- 例えばひらがなで「ちょうちょ」も、漢字で「蝶々」もあります。7年(中1)の最初に画用紙にひらがなと漢字で書いて、「頭に映像を浮かべてごらん」と言うと、多くの生徒はそれぞれが違う蝶々を思い浮かべます。でも、辞書を引いても使い分けは載っていない。それをなぜだろうと考えるわけです。漢字が得意だから、難しい漢字ばかりで書くのがいいわけでなく、詩を読んでいても「漢字があるのに、ここをどうしてひらがなにしたのだろう」と考える。そういうところにこだわってほしいのです。その意味で、漢字が苦手でも「ここは漢字で書くほうがいい」と思ったなら辞書を引いてでも漢字で書く。それが表現であり、表記であり、プロの作家はそこを必ず意識していると生徒には話します。そうしないと、漢字ができる子とできない子だけの世界になってしまいます。
それらを総合した明星学園で身につける国語力とは何でしょうか。
- 堀内先生
- 「ことば」の持っている力ですね。その力は、人を傷つけることもあれば、勇気を与えてくれるものでもあったりする。だからどう使うかを知らないと、自分を傷つけたり、人を傷つけたりすることがあります。でも「ことば」の持っている力の豊かさ、魅力に気づけば、人生が豊かになるし、人と人とのつながりを作っていけます。究極で言えば、そういうことかなと思います。
明星独自の基準があるのですか。
- 堀内先生
- 中学校には、中間テスト、期末テストがありますが、それは正解のある点数で判断できるひとつの力を見るものです。それ以外のきちんと自分の考えを書けるか、再話での作品、他の人の意見をどう取り入れているかといった総合的な評価をしています。8年(中2)時に『走れメロス』の再話をやった時も、提出の締め切りまでに間に合わなかった生徒がいましたが、ある生徒は自分の作品を9年(中3)になった4月に持ってきました。再話に夢中になって時間がかかってしまったということでしたが、それは評価のためにやっているわけではない。純粋に楽しかったのでしょう。ただ、点数にはなりません(笑)。でも、そういう部分も評価してあげたいです。
- 堀内先生
- 去年、いろいろなサイトに書いてきた文章をまとめて、本を出すことになったと報告に来た卒業生がいました。文章を書くきっかけは実は9年(中3)の9月の私の授業だったと言ってくれました。多分にお世辞が込められていると思うのですが、そのエピソードが面白かったんです。
修学旅行の作文を宿題にし、夏休み明けに提出させたんです。その卒業生は、その日の授業の後提出しようと先生に誉めてもらえるだろうと自信のある作文を手元に置いておいたらしいんです。その授業の中で私は、すでに提出されている作文の中から、ある一つの文章を読んだそうなんですね。内容は、その子にとってとても悲惨で、そんなこと学校の作文で書いていいのかと思うようなもの、それでいて、誰も嫌な気持ちにさせない、思わず笑ってしまうような文章でした。彼は自分が書いてきたいわゆる模範的な作文とは全く違うその文章を先生が読んだことに大きなショックを受け、結局自分の書いてきた作文は提出できなかったそうです。その時感じたのが、「自分は先生から褒められるような文章を書いていたけれど、これではダメだ」と、どうしたらみんなに楽しく読んでもらえるかを考えるようになったそうです。気づきがあったのでしょうね。その授業が印象に残っているそうです。
実は私自身、この授業のことは10数年たった今でもはっきり覚えているんです。私も生徒の前ではあえてそういった作文を読むようにしていました。もちろん、彼がそのように感じていたというのは気づきもしませんでしたが。
だからこそ国語科教員として生徒たちに伝えたいことはありますか。
- 堀内先生
- 国語では人との対話だけでなく、自己内対話が大切です。きちんと自分の中で対話できることが深く考えることだし、自分の中で対話ができるから他者を許容できます。正解や正論を掲げるだけではなくて、きちんとした自分の考えを伝えることもできます。それに対話して深く考えていれば、他者の意見を納得して受け入れて、自分の意見を変える勇気も持てます。
私自身もまだまだできているわけではありませんが、そういったことを目指していきたいですね。それには教師が生徒と一緒に学びたいという姿勢でいないと、生徒は対話もしないし、一緒に考えようともしません。自分の不十分さ、不甲斐なさも含めて見せられる勇気を持った教師は、生徒からバカにされることはありませんから、一緒になって真剣に考えられる教師でありたいと思います。